「同潤会アパート」から考える

ウィキペディア」には、「同潤会アパート」について下記のような説明がなされている。

この中でも目を瞠るのが、「大塚女子アパート」の先進性である。

このアパートは、現代での「タワーマンション」や「シェアハウス」の機能・性能を既に備えていたものといえる。つまり、機能面での導入を88年前になしえている。

(表面的には変化し得たように装われている現代共同住宅において、機能面では何も新しいものは出てきていない。)

この機能・性能とは別に、「コミュニティ意識」、或いは「家族意識」は、時代を超えて存在し続けているのだろうか。

この「共同性」延いては「共に住む」行為をその当時人気を得て住宅事業として実現できたのは、その震災の翌年という時代背景からくる物質的(建築的)貧困によるものと思われるが、それがもし、物質的に飽和した現代でも必要とされるとしたら、その意味・価値・構造とは何であろうか。

(当時最先端の独身の職業婦人羨望の居住施設であった「大塚女子アパート」と現代の「タワーマンション」や「シェアハウス」をダイレクトに比較することは、幾分無理はあるが)

この後、

「共同体」の「意味・構造」についてはは、中世村落(家族)社会に求めたいと思う。また、

「建築躯体」の「機能・構造」については、近世以降の古民家(長屋)に求めたいと思う。

尚、この「同潤会アパート」のすべてについて、竣工から55~84年を経て老朽化のため建て壊しを行っている。それは奇しくも、人の寿命とほぼ同年数である。

 

 

 内務省は国内外から寄せられた義捐金の中から1,000万円の支出を決定し、震災の翌年1924年大正13年)5月、財団法人同潤会が設立される。

同潤会が手掛けた住宅としては、いわゆる「同潤会アパート」と通称されるものが有名になったが、これは一般の都市生活者向けに同潤会が建設した一事業であり、これ以外にもさまざまな目的別の住宅事業を手掛けた。

最初期の中之郷アパートの設計は、東大建築学科の内田祥三研究室で行われ、1926年(大正15年)8月に竣工した。以後は同潤会の設計部が中心になって東京・横浜に次々と同潤会アパートを建設した。その後本部組織が独立してからも、建築部長を務めた川元良一をはじめ、鷲巣昌・黒崎英雄・拓殖芳雄・土岐達人ら、内田の教え子たちである東京帝国大学建築学科出身者が多く在籍した。「建築非芸術論」で知られる野田俊彦も一時期嘱託として籍を置き、大塚女子アパートの設計に関与した。

大塚女子アパート(東京 文京区)は、電気都市ガス水道ダストシュート水洗式便所など最先端の近代的な設備を備えていた。完成時はエレベーター食堂共同浴場・談話室・売店洗濯室、屋上には、音楽室・サンルームなどが完備されていて当時最先端の独身の職業婦人羨望の居住施設だった。

 

 

「地」とのつながり

「建てること(すべての建てるという行為)は当然、自然と対立する行為である。

あなたが敷地を選定する際、あなたはそれを自然から区別する。」

<まち>のイデア ローマと古代世界の都市の形の人類学 ジョゼフ・リクワート P.261

 

人はその地に住まうことに何を求めるのか。

或いは、何を意図して、その地に住まうのか。

 

天や地から、或いは、神や自然から断絶した現代の人間にとって、

その「地」とのつながりは、不要なのか。

 

「われわれの先祖たちは、まちや軍隊駐屯地(軍営地)を建設するとき、その敷地で飼われた家畜のあるものたちを生贄として捧げ、それらの肝臓を精査した。

幾つかのそのような検査をしてはじめて、その定められた場所に壁を築くのに着手した」ウィトルーウィウス

 

内臓占いの述語は、壁の走る線やまちの主要な公共建築物の幾つかの現実の配置を示唆していたのかもしれない。(前掲<まち>のイデア ジョゼフ・リクワート P.96)

 

待庵にて

妙喜庵「待庵」を大山崎町に訪ねる。

庵を訪ねるというより、待庵のその先にあるものを尋ねると言った方が好いかも知れない。

待庵のその先にある世界や宇宙を創り出したのが利休であるならば、その中に利休の思いがあるはずである。そしてその思いを尋ねるのは尋ねる自分自身ということになる。

世界や宇宙は、そもそも自分自身の中にあると言ってよい。

しかし、世界や宇宙を「尋ねたれども得ず」(雅歌)、

厖大な時間を費やそうともその全体を捉えることは出来ない。

そして、その世界や宇宙は何も応えてはくれない。

待庵や利休はその他人の試みをただ媒介してくれるに過ぎない。

その躙り口や室床、下地窓、連子窓の障子から射す淡い光は、何を表すのか。

 

ポテンシャルの高い材料はこの世界を造り出せるのか。

もちろんポテンシャルの低いプラスチック製の材料ではこの宇宙は創造できない。

自分自身と対峙させてくれる、この木や土、紙や石の材料の組合せであるところの「待庵」とは何ものなのか。

単なる茶室建築に何故このようなポテンシャルを見出すことができるのか。

 

2022年には、千利休生誕500年を迎える。

500年経ってもこの利休の呪縛から逃れることはできない。

利休のにんまりとした微笑みが目に浮かぶ。

「呪縛しているのはわたしではない。あなたを呪縛しているのはあなた自身だ。」と言わんばかりの表情で。

すべては、あなたの中にある。

 

今回、待庵を訪ねた理由の一つとして、「建築の疎外」を掲げていた。

日常生活の中で、自身が受ける建築からの疎外感があまりに著しく、耐え兼ねていたのである。

それは周囲の街並みを形づくる「鉄筋コンクリートのマンション群」や「プラスチック製建材でできた建売住宅」から受けるものである。

世間的にローコスト高機能で善かれと思って建てられた建築物群が自分を支配している。それによって自身があるべき自己の本質を失っている様に感じたのである。

 

今、待庵を眼前に体感することで、人間らしさを大いに取り戻せたと感じている。

眼前にあったものは、死にゆく材料ばかりであったが、それが返って活力を与えてくれる。決して精神的に貧しくはならないのだ。(ササラ材による杮葺き屋根の耐久年数は25年とのこと)

 

 

 

 

 

 

 

 

「中廊下型住宅」が「居間中心型住宅」へと変遷してゆくことは

 

「中廊下型住宅」が「居間中心型住宅」へと変遷していったことにおいて、

最も中心的な原因として考えられるのは、住宅の中の「接客空間」の必要性の変化であったと思われる。

「接客空間」は、「居間」「茶の間」にとって代わられ、やがては家族のための「リビングルーム」へと変化してゆく。

それはつまり、その時代(1920(大正9)頃~)の日本の建築家たちが欧米の「リビングルーム」を欲した、と言ってよい。

同時に、その変遷の中で、起居様式での「座式」から「椅子式」への変化が求められ、あるいは「部屋の独立性(プライバシー)」と言ったものが、いわば欧米を模倣する形で移植された。(西洋直写型) 

日本に移植された「リビングルーム」は、そのデザインとして「縁側」を切り捨て、引戸を「ドア」にしていった。

 

日本人が、他者と関わるその方法・慣習まで西洋式にする必要性があったとは思われない。また、日本式の生活スタイルである「ユカザ式」「畳間」が、非合理的だとも思えない。

借りてきた西洋式の空間の中で、しかも「接客空間」も持たない日本人は、「社交」という行動様式をも失う。そこには「寝食空間」があるのみである。

「接客」とは「社交」である。

家の空間から、「接客空間」を取り除くことは、そのスタイルとしては、「非社交」を意味する。西洋式住宅空間から「接客空間」を取り除くと、そこには「寝食」空間のみが残される。

 

今回、「中廊下の住宅」青木正夫著に触れ、このような憂いが確信的なものになった。

 

そう思うことは決して悪いことではない。

そう思うことは決して悪いことではない。

そうイメージするだけのことなのだ。

イメージのディテールは明瞭なものもあれば、漠然としているものもある。

明瞭なものに話し掛けてみる。答えるだろうか。

漠然としたものは、応えるだろうか。

もし対象が反応しえたならば、それはもうイメージではないのか。

反応に反応する心の動揺はわるいことなのだ。

ブッダは言うかもしれない。